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2週間前の今日。
父が永眠しました。

癌が見つかったのが2年前の9月。
その時点で医者からは、もって2年と告知されていました。
手術もできない場所で、しかも心臓にICDとういう小型のAEDを埋め込んでいたため、放射線治療もままならない。
そんな体で2年3ヶ月闘い続けました。

「負けないから。闘ってみせる。」と強気で病気と向き合っていた父。
入退院を繰り返す中でも、家に帰ってきて母の作った料理を食べビールを飲むのを楽しみにしていました。

抗癌剤治療がうまくいき、昨年春には「完治」しましたが、その年の秋に再発。
今年に入ってからは入院の期間が長くなり始め、夏に退院してきたときには大好きだった自宅庭でのBBQにも参加できず、横になっていることが多くなりました。

11月に入るとみるみる体調が悪くなり、下旬になる頃には呼吸もままならなくなりモルヒネを使い始め、酸素マスクも外せないようになりました。
でも、鬼嫁曰く「普通の人なら苦しくって起きてられない。」くらいの酸素を送り込まれながらも、自力で座ったり、お見舞いにきてくださった方には退院してまた仕事に行くといったような強気の発言もしてみたり。
決して「痛い」とか「苦しい」とかは口にしませんでした。

12月2日。いよいよ危ないと言われ個室に移りました。
その日の夜は鬼嫁と病室に泊まりましたが、父の意識ははっきりしていて、横になりながらも多少会話もできていました。

12月3日のおそらく午前1時くらいだったと思います。
「座らせてくれ」というので起こすと、自分の力であぐらをかきました。

「苦しい?看護師さん呼ぼうか?」
「いい。」
「どうして?」
「かっこ悪い。」
「そんなかっこ悪いって…」
「でも正直、楽になりたい。」

初めて聞いた弱気な言葉。自分と交わした最後の言葉でした。

その後喉が渇いていたらしく、飲み物を要求。
酸素マスクを外すことができなく、呼吸も苦しそうなので鬼嫁が休み休みゆっくり水を飲ませていましたが、足りなかったらしく

「ひとちゃん、水。」

それが父のほんとの最後の言葉でした。

夜が明け、母や弟が病院に来た頃には、こちらの呼びかけになんとなく目で返事をするくらいしかできなくなっていました。

そして12月3日午前11時22分。
家族に見守られ、眠るように旅立ちました。
その顔は、すごく苦しかったはずなのに、とても安らかで微笑んでいるようにも見えました。


父の訃報を聞き、遠く稚内からかけつけてくれた山Zくん。告別式にも参列してくれたK山くん。函館の父の母校で今は教鞭をとるM川くん。父の教え子で自分の同期でもある彼らを始め、通夜と告別式には本当にたくさんの方々が父とのお別れに来てくれました。
この場を借りて、深くお礼申し上げます。


定年退職まで4ヶ月。母がもう職場復帰はできないと考え早期の退職を促しても、頑として首を立てに振らなかった父。
きっと無念もあっただろうな。
でも仕事に復帰しようとする意思や、自分が死に直面していることをわかっていないはずはないのに、そんなことは家族や周りの人たちに微塵も感じさせない強さ。
親バカの反対の子供バカじゃないけど、本当に偉大な父でした。



あれから2週間経ち、家族は表面的には日常生活に戻りつつあります。
でも、ふっと「今日は何時に病院行けるかな。」とか「父ちゃん、ここ好きだったよな。」とか考えてしまったり、父が入院していた病院には近づきたくなかったり、遅くはない将来にこんな日が来ることを覚悟はしていたとはいえ、寂しさがつのります。
もういないのは残念だし悲しくてしょうがないし、正直まだ信じられない気持ちでいっぱいです。
考えれば考えるほど色んな後悔をしてしまいます。
家族が本当の意味で父の死を受け入れ、前向きに生きていけるようになるにはまだもう少し時間がかかりそうです。
でも今はとりあえず、お疲れ様でしたと言ってあげることにします。

天国で大好きなドラとゆっくり散歩していてほしいな。
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